
豊かな水の循環の先に
-「石徹白洋品店」平野馨生里の歩み-
窓際で黄色いワンピースが陽の光をまとっている。黄色というよりは、子どもが花を水に浮かべて色水をつくったような透明感が残る、淡くて瑞々しい山吹色のよう。同じ色でもまったく同じではなく、おおらかな色の揺らぎが美しい。サクラやヒメジョオン、マリーゴールドなどで染められた「石徹白洋品店(いとしろようひんてん)」の服は自然との深い関わりを通して生まれてくる。
縄文時代から人が住み、白山の山岳信仰と関係が深い石徹白。岐阜県の西部、福井県との県境にあるその小さな集落で平野馨生里(ひらのかおり)さんは植物を摘み、布を染め、子育てをしながら石徹白洋品店を営んでいる。
「石徹白は寒いところだから沖縄とか南の地域よりも植物が持っている色素量が少ないのでしょうね。柔らかく優しい雰囲気が私は良いなと思っています」と、平野さんは微笑む。山に入り植物を手で摘み取る。藍を育て、藍染の染料になるすくもを仕込む。平野さんの服づくりは自然と向き合うことから始まる。その土地の植物で染めることは、その土地と出会うこと。陽に当たり、風に吹かれ、雨に当たる。そして冬には大地が雪にすっぽりと埋まる。自然のエネルギーが循環して植物が育ち、石徹白の風景の奥にある生命そのものが色となって現れる。世界は目に見えるものと見えないもので成り立っていることを私は思い出していた。

「灰汁発酵建(あくはっこうだ)て」技法の藍染
カンボジアで見た原風景、故郷への眼差し
「お母さんたちが繭から引いた糸を草木で染め、布を織っていて。その周りを子どもたちが走り回っていました。鶏がいたり猫がいたり。そんな風景が平和そのもので幸せな感じでしたね」文化人類学を専攻し、大学2年生の頃からフィールドワーク先として訪れていたカンボジアの村を平野さんはそう思い返す。
蚕を育てるためのクワの木や染色に使える木を植えて森をつくり、自然からの恩恵を受けながら自給的に染織をして暮らす村。そこではカンボジアの伝統的な絹織物がつくられていた。伝統的な暮らしや文化が個人のアイデンティティの形成にどう影響するのかを研究していた平野さんは、大学を卒業するまで毎年1ヵ月ほど滞在して機織りをしている村の人に話を聞いた。今でも忘れられないおばあちゃんの言葉があるという。
カンボジアの伝統的な絹織物は自分と切り離せないくらいとても大事なもの。
迷いのないまっすぐな眼差しで話すおばあちゃんの姿を見て、平野さんの心が揺れた。「豊かな日本に生まれ何不自由なく育ってきた自分に、そういえるものがあるのかと考えてみたけれどなにも見当たらなくて。日本のことをなにも知らないし、生まれ育った岐阜のこともなにも知らないことに気づきました」と、当時の気持ちを話してくれた。カンボジアのおばあちゃんの一言から自分の故郷を見るようになり、まちづくりをしている岐阜のNPO法人の活動に関わっていく。

大地の力強さを感じる緑
「ここが好き」と直感した土地
平野さんが石徹白に移住したのは2011年。きっかけは循環型社会への取り組みだった。NPO法人の活動の中でものづくりの現場に足を運び、衣食住やエネルギー、福祉、教育はある程度地域の中で自給していくことが大切だと平野さんは経験して学んでいった。水が豊かな岐阜県でエネルギーを自給できるような循環型社会をつくれないか。その問いに導かれて石徹白を深く知ることになる。
「最初は小水力発電を取り入れられそうな長良川上流地域に見当をつけていろんなところに足を運んだけれど、どこも相手にしてくれませんでした。石徹白の人たちだけが『一緒にやろまい』と受け入れてくださって」子どもの数がどんどん減っていて地域が続かないのではないかと危機感を持っていた地元の人たちは、地域づくりの起爆剤になることを期待していた。それでNPO法人のスタッフとして小水力発電を導入するプロジェクトを半年間石徹白でやることになり、石徹白通いをしているうちに「ここに住みたい」と平野さんは思うようになった。

集落を見渡せる丘からの景色
平野さんが実験事業に取り組んだ後、平野さんの夫、彰秀さんが引き継ぎ、地元の人たちと一緒に石徹白全体に電力を供給できる本格的な規模の小水力発電の導入を実現した。今では売電による収益が生まれ、地域づくりの貴重な財源になっている。道路が整備される前の時代、山奥で豪雪地の石徹白へは歩いて山を越えるしか訪れる方法はなく、特に雪深い冬は閉ざされて孤立した地域だった。だから誰かになにかしてもらうのを待つのではなく、必要なことは自分たちで問題解決していく土壌がある。住民主導の小水力発電導入が実現したのは昔からの自治の精神が残っていたからだろう。
時代は進んでいき、外の世界は変わっていくけれど、石徹白で暮らす人たちが残すべきものとして大切にしてきた精神性は今も変わらずここにはある。最初に訪れたときから「ここ、好き」と思っていたという平野さんは、「理由は後付けでなんとでもいえるけれど、多分感覚的なことだと思います」と話して頷いた。その感覚とは、この土地に身を置いたときに感じる居心地のような身体的なことなのかもしれないと私は思う。服が肌に触れるその着心地が、「気持ちが良いなぁ」と自分の内面に作用するように、人は知らず知らずのうちに場所からの影響を多く受けている。

透明度の高い清らかな川
服づくりと向き合い、石徹白の豊かさを現代につなぐ
「自給的な循環型社会」の暮らし方に目を向けてきた平野さんが移住後に始めたのは手仕事で洋服をつくることだった。2012年に石徹白洋品店の活動が始まり、服の自給を考える持続可能なものづくりを目指していく。
石徹白で農作業用ズボンとして愛用されていた「たつけ」との出会い、そしてたつけをよく知る石徹白小枝子さんとのめぐり合わせは石徹白洋品店の服づくりにおいて大切な出来事だったと平野さんは語る。糸を紡いで手作業で布を織っていた時代からつくられていたたつけ。それは無駄になる布がほとんど出ない効率的な直線裁断で考えられていた。小枝子さんの元に通い、一から仕立て方を教わりながら石徹白の歴史や文化についての話をたくさん聞いたという。現代の感性で見直され、デザインされたたつけは、石徹白洋品店の服づくりの大きな柱となっていった。
その後もかつて石徹白の家庭でつくられていた農作業着の復刻に取り組んでいくが、実物を手に取りながら持ち主のおばあちゃんたちに話を聞くことを今も大切にしている。土地や暮らしのこと、たつけを着ていた日々の記憶を一つひとつ確認していくように平野さんはデザインしていく。
平野さんが石徹白のおばあちゃんたちから学んだことは、単に服づくりの技術だけではないはずだ。食べること、住まうこと、身につけるもの。生活する上で必要なものはすべて自然から享受し共存してきた時代に、人がどんな精神性の中でどう生きてきたのか。たつけを通して平野さんは人間の本質的なものに触れたのではないかと思う。

馬屋を改装したギャラリー
冬にはたつけのつくり方を学びに全国から石徹白洋品店に参加者が集う。「昔はみんな服を自給していたから、自分や家族の服をつくりたいと思う気持ちは素晴らしいと思います。服のつくり方だけではなく地元の人にも会ってもらって、帰った後に石徹白のことも一緒に伝えてくれたら良いなと思っていて。石徹白もどんどん人口が減っていくけれど、なんらかの形で関わる人が増えてほしいと思っています」3日間の石徹白滞在中は服づくりの他に、集落を歩き、地元の人から昔の衣食住の話を聞いて雪国の暮らしを体験する。平野さんがかつて小枝子さんから教えてもらったように、石徹白のこと、たつけの素晴らしさを伝えていく活動を平野さんは大切に続けている。

平野さんとヤギの「アル」
「石徹白でやっていることの原体験は私の祖母です。子どもの頃に一緒に住んでいた祖母は伝統的な行事を大切にする人でした。だから私は昔の人の伝統や暮らしぶりを大切にすることが自然に身についているのだと思います」大学で文化人類学を専攻したのは、自分自身の模索だったのかなと振り返る。「そこから変わらないですね。私がやっていることは昔からずっと変わらない」穏やかな笑顔の奥にある彼女の強い志が伝わってきた。
私たちは過去に生きた人たちから知恵や技術をもらい、自然の恵みによって生かされている。私はその事実を長い間忘れて暮らしてきたことに気がついた。歴史的に長く続いてきたものに学び、すべてのものに感謝する。そうやって過去を未来につなげていくことで私たち自身も循環の流れの中にいることが実感できるのだろう。
写真/太田美佳
>石徹白洋品店 webサイト