
この動物になりたい
-大ナゴヤノート.のエディターたちがめぐった東山動植物園-
2025年5月25日、「動物をじっくり見よう、知ろう。みんなで東山動物園さんぽ」を実施しました。大ナゴヤノート.のエディターと一緒にまちへ繰り出し、お互いに「面白い」を共有するオープンノート.の企画です。
今回は、東山動植物園を歩きました。共通のテーマとしたのは、「自分のなりたい動物」を見つけること。哺乳類、鳥類、爬虫類など、たくさんの動物と出会う中で、なにを感じたのでしょう。エディターと参加者、合わせて5名が、それぞれの視点から気になる動物について書きとめました。
アフリカツメガエル
私がしばらくぼーっと見入ってしまったのは、北園エリアの「自然動物館」内にいるアフリカツメガエルでした。表皮は黒っぽく地味なカエルなのですが、手足をびよーんと伸ばしながら縦長の水槽を泳ぐ姿が、なんとも癒されて。呼吸をすべく上へ上へとのぼり、水面に鼻を出して息が吸えたら下へ下へと潜っていきます。カエルたちは順々にひたすらその動作を繰り返し、水中を浮遊する姿は、まるで宇宙空間にいるよう。私もカエルたちのように、ひたすら呼吸に集中して瞑想するかのごとく過ごせたら相当リフレッシュできるな、浮遊できたらなお楽しい、と思ったのでした。
(文:田原園子)
人の身長よりも高い水槽で、無数のカエルが上にいったり下にいったり。田原さんと同じく、気づけばぼーっとその姿を眺めていました。規則正しく動くカエルの四肢、水中の浮遊感。なんだか時間がゆっくり過ぎているように錯覚する光景でした。
呼吸に集中する姿を「瞑想」と結びつけるのは、私にはない新鮮な発想です。自分とは異なるイメージを共有すると、アフリカツメガエルへの印象も変わりますね。むしろ、私には延々と動き続ける姿がトレーニングのように見えて。「カエルくらい脚力を鍛えられたら良いのに」と密かに筋トレへの熱を高めていました。
ジャガー
大自然を駆け回ることもできず、眠るか食べるかしか生きがいはなさそうだ。狭い空間で一生を過ごすのは嫌だな。子どものころから動物園で動物を見るたびにそう思っていた。
でも、今は違う。社会人になり、数多の過酷な経験を通じて別の見方をするようになった。私のような新規開拓の営業とは違い、ノルマの達成率も顧客からのクレームも気にしなくて良いのだ。目の前のジャガーもそう。リラックスしきった顔は、羨ましく感じてしまう。生まれながらにして動物園が自分の世界のすべてであれば、そこでなにかしらの幸せを見つけているだろう。東山動植物園の飼育員なら、きっと大切に世話をしてくれるはず。
来世は檻の中のジャガー。それもアリかもしれない。
(文:ジェイ)
穏やかな寝顔を見せてくれたジャガー。ジェイさんは、動物園で暮らす動物の姿に対する心象の変化を語ってくれました。ジャガーを通して「自由」や「幸せ」を考える言葉に、ついつい自分の生活にある檻らしきものについて考え込んでしまいます。
他方で、動物園での暮らしは、寝るか食べるかしか生きがいはないのか。はたまた、気にすることの少ない悠々自適なものなのか。そんな問いを投げかけられると、飼育員さんとの関わりも含めて、日々の暮らしをもっと覗いてみたくなります。毎日、どう過ごしているのでしょう。ジャガーの本音も聞いてみたいものだと思いました。
マレーバク
ここ数年バクは表に顔を出さない。前回、前々回に来たときも小屋の奥に引っ込んだままだった。どうしたと心配して問いかけてみると、今は休業中だとの返事。バクは檻の前に立った人々の悪夢を食べる請負業をしている。悪夢を食べると一般的にいわれているのは空想上の「獏」だ。でも、眠たそうな顔をしている現実の「バク」も実は悪夢を食べることを僕は知っている。
求められる情報処理速度と比例するようにストレスが蓄積する現代人に悪夢はつきもの。来園者の悪夢をバクはもう食べきれなくなってしまったと予想する。しばらく僕が代わってやるよ。空腹を満たしながら人助けができる仕事ならば大歓迎だ。
(文:上田隆太郎)
おなかいっぱいのバクがお休みしていると想像できる上田さんの感受性が素敵です。締めの言葉も小粋だ。私はふと「悪夢ってどんな味がするんだろう」と別の疑問が頭をよぎりました(笑)
たしかに現代社会ではバクの出番が多そうです。もしかしたら本当に、バクと会ってネガティブな気持ちを解消できた人もいるかも。いや、そもそもバクののんびりとした雰囲気って癒されますよね。
諸事情で動物の顔が見られない日もあります。そんなとき、上田さんのように想像してみるのも良いですね。休息をとるのは、人も動物も同じこと。またバクに会える日を私も楽しみにしたいと思います。
ライオン
一目見た瞬間の圧倒的存在感。なんにせよ顔がイイ。忙しなく動き回るわけでもなく、ときおり顔の向きを変えるのだが、どの角度も凛々しくて様になる。ため息が出る。さすが百獣の王。ただ座っているだけで堂々たる風格が漂う。
大草原を走る姿などさぞやかっこ良かろう、とうっとり見惚れた。こんなふうになれたら…いや、無理だ。なりたいというのもおこがましい。自分とはほど遠い、到底なれないものへの憧れ。持たざる者の強き者への憧れ。目が合うと、なすすべもなく立ち尽くす小動物のような気持ちになる。東山動植物園を歩き始めた頃は、のんびりと過ごす動物たちに共感を覚えていた。しかし彼と目が合ってからは、今もなお羨望の檻に囚われてしまっている。
(文:榊原あかね)
まさしく威風堂々という言葉が似合うたたずまい。目が合うと小動物のような気持ちになるという榊原さんに共感です。なるほど、「なりたい」という思いは、「憧れ」からも生まれるもの。そして、簡単にはなれないと思いつつ、その姿が心をつかんで離さない。人間同士でも起こりうる感情だ。自分にとってのライオンは誰だろう…。
なれるかどうかはわからなくとも、「あこがれ」は目標にもなります。その動物の生き様をヒントに、自分の人生の指針が見えてくることもあるのでは。ライオンのなにがあの風格をなしているのか、一歩踏み込んで考えてみるのも面白そう。
ワオキツネザル
昔から、しっぽが欲しい。
私はしっぽフェチだ。しっぽにかわいらしさを見出すし、しっぽが好みの動物はずっと見ていられる。形だけでなく、動きや機能も含めてしっぽへの関心は尽きない。
とりわけ、ワオキツネザルのしっぽは良い。白黒の縞模様。個人的にベストな長さと太さ。しっぽの長さが体の約1.5倍というバランス。伸びた状態も自在に動く様子も好きだ。
機能的にも優れている。草むらを移動するときなど、長いしっぽでお互いの居場所を確認するという。長さには理由があるのだ。
何年かぶりの東山動物園とワオキツネザル。けれど、かつてと同じようにしっぽに目を奪われた。やっぱり、叶うなら好みのしっぽのある動物になりたいらしい。できればあの白黒のふわふわを私のおしりに。
(文:小林優太)
大人になっても「しっぽが欲しい」と思うということは、しっぽフェチは私のパーソナリティーの一部なのでしょう。とはいえ、動物たちの生き様は参考にできても、しっぽは決して手に入りません。生えてはこないからこそ、しっぽのある動物たちがうらやましい。とてもシンプルなないものねだりが、私の「なりたい動物」の根源でした。
書きとめられた言葉をみてみると「なりたい」を見出すまでの着眼点も、思考のプロセスも実に多様です。各々のものの見方の違いに面白さを感じるとともに、向き合った人にこれだけの思いを巡らせる動物たちの生態や暮らしぶりにも、ますます興味を抱いているところです。同じ生き物として、他の動物たちと出会ったときに、その姿を通して私たちが気づかせてもらえることは少なくないはず。「かわいい」「かっこ良い」で止めずに、言葉にしてみてはどうでしょう。自分を省みる良い機会になるかもしれませんよ。
写真:大ナゴヤノート.編集チーム












