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大ナゴヤノート.
2019年10月02日

まちあるきと落語。ふたつの顔で笑いを生むエンターテイナー
– 津島ガイドボランティア 恒川一三(落語家 津島家寿芸虫)-

ふらりとまちを歩くのに良い季節がやってきますね。
まちの名所や歴史を知ることができるまちあるきは面白い。私はいつも、素敵なガイドさんとの出会いも楽しみにしています。
まちへの愛にあふれているガイドさん、面白おかしく話してくれるガイドさん。そんな人にまちを案内してもらえると、一層まちの魅力を感じられます。

今回ご紹介する恒川一三さんも、私が出会った素敵なガイドさんのひとり。愛知県津島市を案内してくれるガイドボランティア団体の中心人物です。

「まちあるきはエンターテインメント」。

そう語る恒川さんのガイドは、軽快かつユーモラスに津島の魅力を伝えてくれます。「お話の上手な方だなぁ」と惚れ惚れする人も少なくありません。それもそのはず、実は恒川さん、ガイドボランティアでありながら、「津島家寿芸虫(つしまやじゅげむ)」として活動する落語家さんでもあるんです。

一緒にまちを歩けば、津島が好きになる。
高座(落語などで芸を披露する場所)に上がれば、落語で笑顔をあふれさせる。

まちあるきにもつながる落語家としての歩み、エンターテイナー視点で磨いてきたまちあるきガイドのノウハウ、津島にまつわる語りにもにじみ出る地元への思いなどを聞いてみました。

とても穏やかな笑顔が印象的です。

生まれは津島、育ちも津島、生粋の津島っ子の恒川さん。1949年生まれの70歳。本職は印刷屋さんです。名古屋市立工芸高校印刷科の出身で、高校時代に落語に本格的にのめりこみました。

部活紹介で「らっけん」って名前を聞いて、「ラジオ研究会」だと思ってのぞいてみたら「落語研究会」だったんだよ。しかも、最初は部じゃなくて愛好会。部室も部費もないの。でも、落語好きな親の影響でもともと寄席が好きでね。小学生の頃から、ラジオで落語を聞いて暗記したりして。勘違いだったけど、即決で入会した。正座の仕方、着物の着方から始まり、もちろん落語も練習して、初高座は高1の6月。25分の演目をとにかく書いて覚えたよ。でも、いざ本番になると緊張しちゃってね。25分のはずがなぜか10分で終わっていたという、そんな初舞台だった(笑)

それからの3年間は、落語づけの濃密な日々だったそうです。

夏休みには7、8本の新ネタを覚えて。慰問でいろんなところへも行ったね。創作落語に挑戦して「面白くない」ってバッサリ言われたり、「笑点」みたいに大喜利をやったりもした。高校3年間、落語に捧げた青春だったよ。今でも飲み会だ、旅行だとつながり続けられるいい仲間とも出会えた。
肝心の落語は、高2の3学期くらいからようやくお客さんの反応をみられる余裕ができたかな。笑ってもらえる、嬉しい。その感覚が、今でも落語を続ける根っこの部分にあるんだと思うなぁ。

これが津島家寿芸虫の原点。ちなみに高校時代の芸名は「寿芸虫亭笑座(じゅげむていしょうざ)」。寿芸虫の名はこの頃から引き継がれています。
高校卒業後は印刷業を始め、徐々に落語の第一線からは遠ざかっていきました。約20年のブランクの後、転機となったのは噺家・浪漫亭砂九との出会い。仕事を通じて知り合った落研の名門・関西大学出身で凄腕の彼は、恒川さんが落語経験者だと知ると「一緒に落語会をやろう」と投げかけました。その誘いを受けて、恒川さんがカムバックの舞台に選んだ演目は「かけとり」。大晦日の日に起きた、借りた金の返す返さぬをめぐる笑い話です。落語好きな方ならわかるかもしれませんが難しい演目…。

久しぶりの高座というのもあったかな、噺が飛んじゃってね。いやぁ、悔しかった(笑)でもそれがきっかけで、砂九とも毎年1回、落語会を開くようになって、また高座に上がれるようになったよ。

恒川さんは、津島家寿芸虫として落語の世界へと戻ってきました。「寿芸虫」と名乗るよう勧めたのも砂九さんだったそうです。数年後、砂九さんはお亡くなりになりましたが、寿芸虫さんは落語会の企画を続けました。今では、まちのコミュニティーセンターや喫茶店、人形屋、焼酎バーなど、いろいろな空間を笑いの場に変えています。寿芸虫さんが高座に上がるときにかかるのは木曽節。砂九さんの出囃子を受け継いでつかっています。

津島市では、14年前からお寺の本堂を会場にした「6時間耐久マラソン落語会」を開催。楽しみにしているファンも多い津島の名物イベントのひとつです。日本各地の噺家を巻き込み、地域に根差しながら、落語家として今も活動の幅を広げ続けています。

名古屋市中区栄の焼酎バーでの落語会。

津島でマラソン落語会が始まったのは、実はまちあるきガイドの活動がスタートした時期でもありました。始まりは、津島商工会議所の地域振興委員会の活動の一環で開いたまちの歴史の勉強会だったといいます。

森平(もりたいら)さんっていう、よくしゃべるじいさんがいてね(笑)津島の郷土史家ではぶっちぎりナンバーワンの人。森さんに2時間の講演をしてもらって、その後お酒を呑みながらさらにディープな話を聞いて、とにかく面白かった。「あそこの家の先祖が、あの寺の仏像を売っ払っちゃった」とか「あいつのじいさんは明治時代にとんでもないことをした」とか。歴史の本には絶対書かれないけど、笑っちゃう話をいっぱい聞かせてもらったよ。
仲間内で関心が高まって歴史の活動を続けていると、商工会議所の枠組みにはだんだんおさまらなくなってね。最終的には自分たちでガイドボランティアの団体を立ち上げて、伝えていこうって話になったの。ガイドボランティアを行政主導で運営しているまちも多いけど、津島は最初から100%市民の手による運営。「津島の話が聞きたい人なら、誰でも、どんな話でも基本的には断らない」というスタンスでやっているよ。元気なじいさん、ばあさんばっかりだから(笑)

楽しそうに当時を思い返してくれました。津島市は、織田信長や父の信秀と縁が深く織田家の足跡が残るまち。ユネスコの無形文化遺産に選ばれた尾張津島天王祭も有名です。王道の歴史や文化の話題だけでも興味深いですが、恒川さんのガイドでは、地域で語り継がれてきた歴史的遺産とまちの人とのつながりも垣間見られます。まさに落語のような、思わず笑ってしまうエピソードの数々。津島の歴史を知るだけでなく、津島のまちの人たちも好きになるお話です。

まちあるきの一場面。2018年のやっとかめ文化祭より。

津島のまちあるきの定番スポットのひとつ津島神社。

まちあるきと落語。人と向き合い、語る、伝える、という点で、大切にしていることも共通しています。

落語をしていると、話の組み立て方とリズム感を鍛えられる。オチに向かってどうストーリーを組み立てるか勉強になるし、落語のうまい人はフリートークの返しもやっぱりうまい。ただ、せっかく組み立てた話もリズム感がなくては台無しになっちゃう。「パン!パン!パパパン!」とリズムをつけるところを、ダラダラ歯切れ悪く続けては聞いていられない。それは、落語もまちあるきも一緒だと思っているよ。
それから、いかに柔軟になれるか。事前にどれだけネタを仕込んでも、外れることは多いし、思いがけないところでドカンとウケるときもある。「今日はこれが合うか」と反射的に修正していく。お客さんの顔をちゃんと見ていてこそできる。まちあるきも、どんなにためになる話でも退屈させたらおしまい。頑固にならないのが大事だね。

お客さんとして落語を聞き、まちを一緒に歩くと、そのレベルの高さに驚かされますが、恒川さんのめざすところは常に先です。

一緒に落語会をする噺家たちも年々腕をあげている。新しくうまい人もどんどん出てくる。落語の道に終わりはないから、ただただ自分も上達し続けていきたい。一緒に落語をやる仲間たちに「うまくなったね」って言われるようであろうと思っている。プロでもアマチュアでも、本当にいい落語を聞くとお客さんは前のめりになって椅子から背が離れるほど面白い。そんな落語がしたいね。
まちあるきのガイドも、私の話で「また津島に来たい」と思ってもらいたい。織田家の話、天王祭の話、津島には一度のまちあるきでは案内しきれないほど、見てもらいたいものがたくさんあるから。「次はこの話を聞きに来よう」と心を掴めたらいいなぁ。

高校時代にのめり込んだ落語の世界でいつまでも上達することを楽しみ、落語家の力を活かしてまちの歴史の語り部としても活躍する。70歳を迎えてなお高い目標を追いかける姿はとっても魅力的です。あなたもぜひ、恒川さんの落語会や津島のまちあるきに足を運んでみてはいかがでしょう。思いっきり笑いにいってください。

写真/小林優太

取材/小林優太、こんちゃん、おかん

小林優太

愛知県あま市出身。キャッチフレーズは「あま市と歴史とラッコを愛す」。普段は、コピーライターだったり、大学講師だったり、まちづくりに関わる人だったり。大ナゴヤ大学では、2012年からボランティアスタッフ、授業コーディネーターなどで活動。
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