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大ナゴヤノート.
2019年11月27日

深掘ることで、また魅せられて。お寺の建物に秘められた魅力
-岡崎市・善立寺-

今からちょうど1年ほど前、とあるお寺に魅了されました。岡崎市にある善立寺。名鉄東岡崎駅から歩いて8分ほどの、まちなかにあるお寺です。

約550年前に松平宗家4代・親忠により創建された善立寺は当初、今の安城市にあったようです。1532年に松平宗家7代・清康が岡崎城に移った際に善立寺も岡崎城内中之馬場に移築され、その後、1647年に再び移転することになり現在の地に。境内には徳川家康公お手植えの臥竜梅もあり、松平家や徳川家とのゆかりがうかがえます。

山門・本堂・玄関・七面堂が国登録有形文化財に指定されている善立寺。毎年秋には、愛知登文会*1が開催する「あいちのたてもの博覧会(あいたて博)」*2の会場として公開もされています。善立寺では現在、復原改修工事が行われており、あいたて博当日にはその工事を手がけ、また善立寺の檀家総代でもある建築士の川島康治さんが建物の解説をしてくださいます。

私が善立寺に魅了されたのは、実は昨年の建物公開*2の際にボランティアスタッフとして活動したのがきっかけ。そのときの善立寺の印象を思い出して今年も志願し、2年続けて1日常駐していました。この記事では2度の活動を通じて出逢った善立寺の魅力をご紹介したいと思います。

*1 正式名称は「愛知県国登録有形文化財建造物所有者の会」。
*2 「あいちのたてもの博覧会」は今年度からつけられた名称。今年度は10月12日から11月24日まで、愛知県内50ヵ所の登録有形文化財を会場に開催された。

ここにしかない!?寄棟の高麗門


まずはお寺の入口、山門から。この山門は、1874年(明治7年)の廃城令により岡崎城が廃城となる際に二の丸から移築されたものと伝えられています。明確な記録は残っていないそうですが、川島さんらが昨年、改修工事のために屋根の瓦を剥がして野地板(瓦の下の板)を見たところ、ナタバツリという板の表面を整える処理がなされていたとのこと。川島さんは次のように考察します。

普通は瓦に隠れて見えないところであるにもかかわらず丁寧な仕事がしてある。これは町家ではなくお城の仕事といえるでしょう。

山門の様式は高麗門で、大屋根と小屋根の境目を見ると寄棟になっています。川島さん曰く「寄棟の高麗門は、調べた限りではここにしかない」。確かに、検索エンジンで「高麗門」の画像を検索してみても、寄棟になっているものは見当たりません。

川島さんがこの山門に抱く印象とは――。

お城の門ということは馬に乗ったままくぐることもある。となると屋根を高くしなければならないので、普通の高麗門だと大屋根が突き出た形で私は不格好だなと思うのだけれど、この門は寄棟にしたことで大屋根が低く抑えられていて、格好いいなと思いますね。

三所三様の格天井に注目!

本堂では、ぜひ頭上を見上げてみてください。あいたて博の日は、通常お寺ではなかなか踏み入ることのできない内陣までも気軽に見学させていただけます。


善立寺の内陣の奥で頭上を見やると、木彫りの菊花紋がはめ込まれた格天井を目にすることができます。菊花紋といえば皇室の象徴でもありますね。そのため、大政奉還後の1869年(明治2年)頃には菊の御紋章の使用禁止令が出され、全国で菊の意匠の入ったものを破棄するといった動きがあったとか。しかしながら善立寺の場合は、“田舎”であったことが幸いしたのかこうして現在まで残っており、非常に貴重なものだということです。


左脇陣の格天井には、それぞれ異なる家紋が描かれています。今、描かれているのは大檀那の家紋だそうですが、「かつては善立寺を創建した9人の武将の家紋が描かれていて、戦の前には各武将が自分の紋の下に座って武運長久の祈願をして出陣したようだ」と川島さん。


一方、右脇陣の格天井には鮮やかな格子模様が。あいたて博の見学者の方からは「モダンなデザインですね」といった声も聞かれました。布のようにも見えますが、実は色をつけた竹で編まれた竹網代。これもまた「あちこちの専門家などに聞いてみても、他では見られないようだ」といいます。さらに、一つひとつの模様を見比べるとすべて異なるデザインになっており、川島さんは類するものを引き合いに出しながら語ってくださいました。

イギリスのタータンチェックというのは、家によってデザインが違うらしいですね。それから私は、この竹網代は甲冑の胴体部分の模様とも似ていると思うんです。きちんと時代考証がされた時代劇などで甲冑を見ると一人ひとり模様が違うんですよね。この竹網代の模様も、それぞれ武将を表しているのかも。

もしかしたら、かつて左脇陣の格天井に描かれていたという9人の武将の家紋ともつながりがあるのではないか、そんなふうにも思えます。

屋根を見上げて……気づいた方はお目が高い!

今年は玄関の改修工事中。玄関まわりには足場が組まれており、あいたて博当日には足場に上って玄関や本堂の屋根を間近に見ることもできました。本堂の屋根を南東隅から見上げた様子がこちら。

この写真を見て、違和感を抱いた方はお目が高い!
…お気づきになることはありましたか?

そう、瓦が左右対称になっているのです!…っと言われてもまだピンと来ない方もいらっしゃいますよね、きっと。
よくご覧ください、左が本堂南側(正面)の屋根、右が本堂東側の屋根。

善立寺の屋根は桟瓦と呼ばれる瓦を使用した桟瓦葺きです。桟瓦は、片側が山になっていて、山の部分を隣の瓦の端に覆いかぶせるようにして葺かれる瓦。一般的には本堂南側のように、左側が山になった桟瓦を用いることが多いのですが、東側の屋根を見ると、右側が山になった桟瓦が葺かれています。それが「左右対称」の理由。

善立寺の本堂がこのように葺き分けられている理由について、川島さんは「善立寺は高台にあり、風が巻くため、風雨が入らないようにという工夫のようだ」と教えてくださいました。右側が山になった桟瓦は、冬に北西の季節風が吹く中国地方や高知県など一部の地域で使われているようです。島根県松江市にある、川島さんが手がけたもうひとつの登録有形文化財「保性館 幽泉亭」、こちらもやはり右側が山になった桟瓦が葺かれていたとか。

善立寺ではもう1ヵ所、山門の小屋根の片面にも右側が山になった桟瓦が葺かれています。こちらは左右対称の見た目の美しさを意識したのでしょうか。しかしながら、今のところ私は善立寺以外で右側が山になった桟瓦を使用している建物を知りません。昨年こちらでこの桟瓦の違いを教えていただいてから、桟瓦の違いも気にしながら主に愛知県内の瓦めぐりをしてきましたが、1軒の建物で面によって葺き分けている例はおろか、右側が山になった桟瓦を用いている建物自体、見つけることができませんでした。それぐらい、善立寺の桟瓦の葺き分けは珍しいということもおわかりいただけるかと思います。

飾り瓦の立派な玄関、私のイチ押しはふたりの仙人さま

さて、善立寺の私のお気に入りポイントのひとつが玄関の屋根の飾り瓦!…なのですが、先ほど玄関の改修工事中と書きましたね。そうなんです、今年のあいたて博の日には私のお気に入りの瓦は“お色直し”中で、再会がかなわなかったのです…(涙)仕方ないので、昨年撮った写真でご紹介することにいたしましょう。こちらが工事前の玄関。

鬼瓦の両側には2体の天女さまがいらっしゃり、さらにその外側に、破風に沿って雌雄の昇り龍も(細部はぜひお色直し後の実物でご確認ください)。
天女さまと龍ももちろん素晴らしいのですが、私のイチ押しは左右の隅にいらっしゃる仙人さま。

向かって左は…

亀に乗った亀乗り仙人。
向かって右は…

鯉に乗った鯉乗り仙人。

実はこのおふたりにはちゃんと名前があるんですよ。亀乗り仙人は黄安さま、鯉乗り仙人は琴高さま。いずれも中国の故事に由来する仙人さまです。黄安さまは、有名どころだと京都の仁和寺にもいらっしゃいます。その他のお寺だと、善立寺のようにおふたりが左右対で屋根にいらっしゃることが多いかな。善立寺の玄関の工事は今年度末には完了するそうなので、お色直し後の天女さまと昇り龍、亀乗り仙人と鯉乗り仙人に再会できる日も楽しみです。

まだまだ善立寺の見どころはあるのですが、すべて書いてしまうとこれから行かれる方の楽しみがなくなってしまうかな、と思うのでこの辺で。
瓦には少々詳しいものの、建築全般についてはまだまだ不勉強な私。川島さんならではの考察を交えた解説のおかげで、ひとりで訪ねていたら単に「きれいだな、面白いな」で通り過ぎてしまっていたかもしれない魅力にたくさん出逢うことができました。皆さんもよかったら、来年のあいたて博やその他の解説つきのまちあるきイベントなどにお出かけになってみてください。きっと思いもよらぬ発見がたくさんあるはずですよ。


最後にもうひとつ。
瓦には時々、製造者の刻印が入っていることがあります。愛知県内ではやはり地元産の三州瓦であることを示す刻印を見かける(というか、私は今のところ三州瓦のものしか見たことがない気がする)のですが、善立寺の本堂の瓦には…

なんと「横濱仁左エ門」の文字。なぜ横浜の瓦屋さん!?
とっても気になります…(何かご存じの方はご教示いただけたら…)

<2020.12.16追記>
「横濱」の真相がわかりました!
善立寺の住職さんからの情報によれば、この「横濱」は神奈川県「横浜」市ではなく高浜市の「横浜」という地名とのこと。そう聞いて検索してみると確かに、高浜川に「横浜橋」が架かっていたり、公営住宅の名に「横浜」とついていたりします。ほほう、まさか高浜市の地名だったとは。
昨年からいろいろ資料を調べたり、「屋号(姓)が“横濱”なのでは」「“横濱”に見えるけれど実は違う字なのでは」などと推理したりもしていたのですが、今思えば、なぜ“地名”という発想に行き着かなかったんだろう…ちょっと悔しい気も(笑)
ともあれ、謎が解けてスッキリしました!謎解きにお力添えくださった皆さん、ありがとうございます!

写真:脇田佑希子

脇田 佑希子

愛知県海部郡生まれ。なんちゃって理系のサイエンティスト+編集屋+瓦を追うひと。暇さえあれば軒丸瓦を探しにまちへ繰り出すおさんぽ好き。まちに埋もれたお宝を、人それぞれに発掘できるような“仕掛け”を創りたいと日々思案を重ねている。
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