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大ナゴヤノート.
2020年04月15日

自分の働くまちの変遷をたどる
-丸の内に勤めて3年-

この辺りは、繊維が有名でね、服のお店がたくさんあったんだよ。

職場の先輩から聞いた、かつての丸の内のまちなみ。今の職場に勤めて3年、彼らは時折こうやって、他県から引っ越してきた私に、愛知県の歴史や文化を紹介してくれます。

丸の内は、高層ビルが連なっている金融・ビジネス街です。話に聞く丸の内と今のまちの姿は随分、印象が違う。昔はどんなまちだったんだろう。そんなことを考えていたある日、営業中の道すがらに、丸の内の長者町通で「歴史の十字路まちしるべ」という案内板を発見しました。この案内板は中区制100周年記念事業の一環で設置されたようで、長者町通や桑名町通などの旧町名の由来を紹介するものがあちこちに見られます。

長者町の名前の由来とまちの変遷が書いてあります。

名古屋でまちの移転…、「清須越し」という言葉を聞いたことはありますが、それと関係しているのでしょうか。改めて愛知県図書館で「名古屋市中区史」(1944年)を開いてみます。すると、徳川家康によって名古屋城の築城に伴い、清須から名古屋への都市の移転が実施された、との記述がありました。これを機に清須の商人たちも名古屋へと移り住み、丸の内は町人町になっていったようです。

また、まちしるべには長者町の繊維問屋街についても述べられています。文明開化とともに西洋料理店が建ち、昭和初期までは政界人や華族などが訪れる歓楽街だった様子。戦後は、業者がその場で現金を支払い商品を購入する現金問屋の看板を掲げる店が増えていきました。一般的に、現金取引だと安い価格で売買できると言われています。この方法が日本三大繊維問屋街に発展する原動力になったのかもしれませんね。今でもまちを歩いてみると、当時の現金取引の名残でしょうか、卸売価格で販売をしている企業が残っています。

他にはどんな店があったのかな、と過去のまちの姿に思いを巡らせながら、2丁目の魚ノ棚通へ。この通り沿いで目を引かれたのは瓦屋根の大きなお屋敷。400年の歴史を誇る、名古屋最古の老舗料亭「河文」です。

魚ノ棚通について書かれた「歴史の十字路まちしるべ」には、西魚町、東魚町と呼ばれ、魚屋や料理屋などが数多く並んでいたとあります。河文のwebサイトを見ると、河文の前身は清須から移転した魚屋の「河内屋」で、河内屋文左衛門が目利きの技術を生かし料亭に転換したのだとか。江戸時代にはこの通りが多くのお店でにぎわっていたことを今に伝える貴重な場所です。

それにしても、江戸時代から続く町名を改めたのはなぜだろう。そんな疑問を浮かべながら、3丁目の呉服町通の看板越しに名古屋城の堀がある外堀通を見ていたら、ふと違和感を抱きました。

丸の内が堀の外側にある…。丸の内の「丸」は「城」を意味する。東京では、城がある堀の内側を丸の内と呼んでいたはず…。ということは、ひょっとして昔はもっと外側にも堀があったのかな。この仮説を検証するために「名古屋時代MAP 江戸尾張編」(2009年)で、現代の地図と比較してみました。しかし読みは外れ、堀の位置は変わらず。ではなぜ、堀の外側なのに丸の内と呼ぶのだろう。

鶴舞中央図書館に所蔵されていた「なごやの町名」(1992年)で探ってみます。町名が変わったきっかけは1962年に国が制定した「住居表示に関する法律」にありました。これは戦後の急速な都市化によって生じた地番の混乱を解消する目的でできた法律です。名古屋市もこの法律に基づいて、町名を変更するために、「名古屋市町名町界整理方針」を定めました。

慣れ親しんだ旧来の地名の変更に対して、住民からの不満が噴出。そこで従来の京町などの町名は通り名とし和解を模索しますが、長者町織物協同組合を中心に、後に「長者町訴訟」と呼ばれる裁判が起こされました(名古屋高等裁判所 1973年 住居表示議決無効確認等請求)。この裁判は行政側の勝訴で幕を閉じますが、こういった事態を受け国は、新しい地名は歴史上、由緒あるものや語調の良いものにするようにと通達を出します。しかし、「長者町」がそのまま残されるには至らず、このエリアは「丸の内」となったのです。

なぜ丸の内となったのかを説明する記述は、残念ながら見つけられていません。ここからは、私の個人的な想像です。当時は、生まれたまちで大人になるまで育ち、親から子へと家業を継ぐ人が多かったはず。そのため、今以上にまちとの結びつきが強く、町名もまた、かけがえのない存在だったのではないでしょうか。だからこそ、住民の納得を得られる地名を模索する必要があったのではないかと思われます。東京では江戸時代には徳川家康が江戸城を建て、明治時代には「一丁倫敦」の名で大ビジネス街として栄えた場所を「丸の内」と呼んでいて、その名前にあやかったのではという想像もしてみました。皆さんはどう思われますか。もし、こうした話に詳しい方がいましたら、ぜひ、教えてください。

最初は仕事中の職場の人との何気ない雑談を、「へー、そうなんだ」ぐらいにしか聞いていませんでしたが、調べてみると案外、奥深さがありました。私にとって、ただの勤務先だった丸の内。いろんな変遷を経て今の姿にたどり着いたと考えると、それだけでまちの景色が味わい深いものになりました。これからも、こんなふうに愛着が持てるまちを増やして、日常を楽しくしていきたいです。

写真:ジェイ

ジェイ

大阪府生まれ。小学生で神奈川県へ。東京の大学を卒業し、就職後、名古屋へ配属される。子どもの頃から引っ越しを繰り返し、地元愛を感じられる場所を持たないため、愛知を地元にすべく、大ナゴヤ大学のボランティアスタッフとして活動中。
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