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大ナゴヤノート.
2022年06月01日

運河のほとりの地蔵堂、見つめて織りなすストーリー
-中川運河・小栗橋西詰-

「この前、こんな瓦を見つけたんだけど~」
昨秋の「やっとかめ文化祭」*1でやっとかめ大使*2として活動していたときのこと。私を“瓦を追うひと”だと知るやっとかめ文化祭のディレクターさんに呼び止められました。差し出されたスマホの画面を覗くと、見たことのない紋の入った瓦が写っています。

*1 毎年10~11月に開催される名古屋の都市文化祭典。
*2 やっとかめ文化祭を支えるボランティアの呼称。

すかさず「それどこですか」と尋ねたところ、「中川運河沿いに小さなほこらみたいなのがあってね。でもその建物、名前もいつ建てられたのかもよくわからなくて」と返ってきました。そう聞けば、ついつい調べたくなる性分の私。帰宅後さっそくPCを開き、ディレクターさんのおぼろげな道案内を思い出しながらGoogleストリートビューをぐりぐり動かしては運河沿いの道を北へ南へ行ったり来たり……と、あった!ディレクターさんのスマホで見たのと同じ小堂を探し当てることができました。

場所は中川運河に架かる小栗橋のたもと。今度はこの小堂の名称や由緒を知りたく、「小栗橋」をキーワードにさまざまに検索をかけてみます。検索結果を一つひとつ見ていくうちに目が留まったのは、中川区役所地域力推進室が作成したマップの中のこんな記述。

この橋の西詰には、ほほ笑みをたたえた、まん丸の優しいお顔の地蔵が安置されている運河地蔵堂があります。この辺りは水死者が多く、その霊を慰めるために地元の人たちの浄財により昭和10年この地蔵堂が建立されました。
(「はしからはしまで中川区 橋の魅力発信マップ」[PDF]より)

なるほど、中川運河で亡くなった方の慰霊のために建てられたのですね。
呼称や歴史がわかったところで、私も運河地蔵堂に参上しなくては。名古屋駅から歩いても30分ほど、春の陽気に包まれながらウォーキングするにはちょうど良い距離です。中川運河の西側の道を南下していくと、見覚えのある小堂が視界に入ってきました。

小栗橋西詰に建つ運河地蔵堂

 
私が気になっていた紋入りの瓦がこちら。

“上がり藤に花の字”紋入りの隅巴(すみともえ)瓦

「上がり藤」の紋に「花」の字が書かれています。私はこれまで少なくとも1,000ヵ所以上の瓦スポット(寺社、商店、民家など)で瓦を見てきましたが、この紋は初めて見ました。それほど珍しい紋であることをまず書き添えておきます。

では、なぜここに“上がり藤に花の字”紋の瓦が用いられているのでしょう。瓦に入っている紋や文字は、多くの場合、その建物と縁のある家の紋であったり、建物名称に含まれる文字であったりします。それを踏まえると、運河地蔵を建立した人の家の紋が“上がり藤に花の字”…などと結論づけてしまいそうですが、ちょっと待った!(笑)

現地で確かめたかったことがあります。それは、運河地蔵堂の屋根にはこの紋入りの瓦が複数使われているのかどうか。ディレクターさんに見せていただいた写真では、紋入りの瓦は1ヵ所にしかないように見えたのです。
地蔵堂のすぐ脇に、中川運河の河岸に下りられる階段があったので、下りて地蔵堂の裏に回り込んでみることに。そうして四方の屋根を確認した結果、“上がり藤に花の字”紋入りの瓦があるのはやはり正面左隅の1ヵ所のみ。他はほぼ、万十(まんじゅう)と呼ばれる文様のない軒瓦でした。

このように一部の瓦が他と異なるのは、おそらくもともと葺かれていた瓦が破損したり落下したりしてしまい、そこへ別の瓦を持ってきて補修したから。改めて地蔵堂の屋根全体を観察すると、他の瓦に比べこの瓦だけやや新しそうな風合いに見えますし、周りの瓦との間にも不自然な隙間があいています。さらに、通常は左右対で飾られる獅子瓦が、右側にはあるのに左側にはありません。…これらのことから、過去のいつかのタイミングで正面左側の屋根になにかしらアクシデントが起こり、獅子瓦や隅巴瓦が欠損してしまったのではないかと考えられます。

正面右側には万十の隅巴瓦と獅子瓦

過去に遡って運河地蔵堂のすがたを見ることはできないだろうか。ふとそんな考えが浮かび、調査モードに戻った私は図書館で中川運河の資料を漁ってみました。しかし図書館の資料では、運河地蔵堂に関する記述や写真は見あたらず…。
私が見つけたうちで最も古いのは、2007年10月に撮影されたらしい写真(こちらのページの中ほど)。正面左隅の瓦に目を凝らすと、なんとなく“上がり藤に花の字”紋の瓦であるように見えます。そして獅子瓦も、現在と同様に向かって右側のみ。つまり、この頃にはもう今と同じ状態になっていたというわけですね。

それにしても、補修する際になぜ“上がり藤に花の字”紋の瓦を用いたのかが気になります。近くにこの紋の瓦が葺かれた建物でもあれば、「あぁ、ここの余った瓦を転用したのね」と合点がいきますが、先ほども書いたように私はこの紋の瓦が葺かれている建物を知りません。また、単に補修するだけなら、他と同じ万十でこの屋根にぴったり合う瓦がいくらでもありそうなものです。にもかかわらず、敢えてこのレアな紋入りの瓦にしたのだとすると、ここに家のしるしを遺したいという誰かの意向がはたらいたのかな。そんなふうにも思えてきます。

私はまだその建物を見つけられていないけれど、近くに“上がり藤に花の字”紋を家紋とする家があるのでしょうか。藤紋に字を組み合わせた紋にはいくつか知られたものがあります。例えば、藤紋に「加」の字を組み合わせた加藤藤(かとうふじ)紋は、その名の通り「加藤」姓の紋。同じように考えれば、“上がり藤に花の字”紋は「花藤」さんの家紋かしら。でも「花藤」という姓は珍しいから、「花」の字を含む別の姓の可能性もあるか。あるいは、「花藤」と書いて「カトウ」とも読めるので、転じて「加藤」さんの家紋なのかも。…推理は止まりません。

運河地蔵堂の脇から望む中川運河

中川運河の穏やかな景色を、今日も見守っている運河地蔵さま。花や水が供えられ、屋根の補修を含めお手入れが行き届いている様子から、まちの人に敬われ親しまれているお地蔵さまであることがうかがい知れますね。


そうそう、私が突き止めた呼称と歴史はやっとかめ文化祭のディレクターさんにすぐにお伝えしました。数日後に開催された中川運河沿いをめぐるまちあるきでは、無事にご案内が叶ったらしく、参加された方のブログにも写真と「運河地蔵」の文字がバッチリと。私のリサーチ力と探究心と執念(笑)がお役に立ったようでなによりです。

写真:脇田佑希子

脇田 佑希子

愛知県海部郡生まれ。なんちゃって理系のサイエンティスト+編集屋+瓦を追うひと。暇さえあれば軒丸瓦を探しにまちへ繰り出すおさんぽ好き。まちに埋もれたお宝を、人それぞれに発掘できるような“仕掛け”を創りたいと日々思案を重ねている。
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