「もの」と向き合う、「自分」と向き合う
-大須観音骨董市と大ナゴヤノート.のエディターたち-
大須観音の境内で毎月18日、28日に開催されている大須観音骨董市。器などのいわゆる骨董品から古道具、レトロなおもちゃまでがバランスよく揃っていて見応えがあります。その日、その場所に行ってみないとなにがあるかわからない。そんな不確実性が骨董市の楽しさのひとつです。
他の人がどんなものを手に取っているのかも気になるところ。なにを選ぶのかは人それぞれです。10人いたら10通りの「もの」との出会いがある骨董市に、大ナゴヤノート.のエディターたち*を誘って出かけてきました。集合時刻は朝の8時。ひとり、またひとりと集まって 来るエディターたちの表情は戸惑いや緊張からか固めの印象を受けました。そう、彼らは全員、骨董市に来たのがはじめてだったのです。それぞれはじめての骨董市でなにを思い、なにに心惹かれたのでしょうか。
* まだ記事を執筆していない新人エディターも参加しています。デビューをお楽しみに!
金属活字に自分を見いだす
地面に置かれた木箱の中で金属活字を見つけた。かつては活版印刷に用いていたであろう、「上」と「田」の文字が彫られたふたつのかたまり。ふたつを合わせると自分の苗字が示される。これらは自分を表すものであろうか。確かめるためにさまざまな方法でしばらく観察する。持ち帰った後に金属活字を眺め、字面を触り、インクを付けて押してみる。眺めて、触って、押して、納得する。やはりこれは自分だ。
小さい金属活字に自分を見いだし、そしてそれは自分の一部となった。そう認識すると、もうこれらを改めて観察することができなくなった。自分で自分を観察できないように。そう認識すると、もうこれらを自分から切り離すことができなくなった。自分で自分を切り離すことができないように。
私は再びこれらに他の意味を見いだすことができない。金属活字はもう「上田」という意味しか持てない。このふたつのかたまりに自分を見いだして本当に良かったのだろうか。金属活字を檻に閉じ込めてしまったような罪悪感を少し抱く。
(文・写真:上田隆太郎)
金属活字に自分自身を重ね合わせた考察の先に、上田さんが考える「自己存在への問い」が見え隠れしているように感じました。自分という存在の中にある世界を、ものを通して表現する。それは普段、私たちが何気なくしていることかもしれません。人とものとの関係性。なんとも哲学的ですね。
学生時代を思い出す史料
骨董市には、古い広告や包み紙などいわゆる“紙もの”もたくさん出品されていました。箱いっぱいの紙の山を、一枚一枚探っていくのはなかなか楽しい。そんな中、絵葉書の束に混ざった小さな冊子に目がとまります。
表紙には「帝国教育学会著 尋常小学読本字引 第六学年後期用」*の題字。発行は1911年(明治44年)で、100年以上前のものです。タイトルから、明治時代の小学校に関わりのある冊子だと窺えます。実は私、学生時代に教育史を専攻しており、こうした史料には自然と心惹かれてしまうのです。
内容を見ると、「第一課」「第二課」と章が区切られ、難しそうな言葉とその説明が列挙されています。「字引」とは一般的に辞書のこと。おそらく教科書などを理解するための副読本なのでは。ただ、児童用か先生用かも不明です。これがなにかを解き明かす楽しみができました。骨董市は、歴史を探究する人にとっても、掘り出し物と出会える場所かもしれません。学生時代の思い出もよみがえって、なんだか懐かしい気持ちになりました。
* 旧字、異体字は常用漢字に改めました。
(文・写真:小林優太)
表紙に描かれている花と植物のイラストからアール・ヌーヴォーのデザインが流行った時代のエッセンスを感じます。この副読本を使っていた人がどんな生活をし、どんなことを夢見ていたのか。ページをめくりながらかつての持ち主に思いを巡らせてみたらひとつのドラマができそうだなと、どこまでも妄想が膨らみます。
飾りで良いのよ鉄瓶は
直径6センチほどの小さな鉄瓶。3種類あったサイズのうち一番小さいものです。見た目のかわいさに惹かれました。店のおじさんいわく「大きいものは火にかけて使えるけれど、これはまぁ、飾りだな」。うーん残念。いや待てよ、鉢植えの水やりに使えば実用的ではありませんか。
最初は骨董の選び方がわからず困惑していたのですが、この鉄瓶の購入をきっかけにほかにもなにか良い品はないかと無心に…。手紙に押したくなる面白い絵柄の活版スタンプ、贈り物に使うと喜ばれそうな昭和レトロな包装紙。しだいに「あ、私は使い道をあれこれと考えるのが好きなんだ」と気づきました。掘り出し物を探しているようで、自分の知らなかった一面を探していたのかもしれません。
さて、自宅で鉄瓶に水を入れて傾けたら、水が注ぎ口から底まで伝ってうまく注げませんでした。おじさんの言っていたとおり、やはり飾りだったのでしょうか。そんな惜しさも含めて、今、じわじわと愛着が湧いてきています。
(文・写真:榊原あかね)
直感的に「なんだか気になる」と使い道を考えるより先に手に取る。自分の気持ちが先行する買い物の仕方は子ども心があって楽しいですね。使い道を考えるということは、ものをじっくり見て自分の暮らしに重ね合わせるということ。日々の暮らしを俯瞰して見ることで新たな気づきが生まれそうです。
友人へのプレゼントを求めて。出会った焼き物の正体は…
探していたのは友人夫婦へのプレゼント。以前、新居に招待してもらいましたが、引越し祝いを買い損ね、手ぶらで訪問してしまったのでした。ふたりとも「気にしないでね」と優しい言葉をかけてくれたものの、私としては忸怩たる思い。この骨董市で良いものをゲットして、挽回したいところです。
あれこれ考えながら1時間ほど市場を歩き回って出会ったのは、不思議なデザインの焼き物。お店の方いわく、たぬきの信楽焼をモチーフにした徳利なのだとか。しかもこの徳利、お酒を注ぐために傾けるとかぶり笠がパカっと開く、からくり徳利なのです。「これは、めっちゃ面白い!」と思い、購入。その日の夜、招待された食事会でさっそく渡します。
「あっ、焼き物!こういうの好きなんですよ。僕も妻も焼き物の産地に縁があるので。特にからくりとかの凝った感じ、良いですね」
骨董品って好みに合わないともらっても困るだけなのではと不安もありましたが、想像以上に喜んでくれました。
(文・写真:ジェイ)
AIが趣味嗜好を分析し、妥当なものを選んでオススメしてくれる時代にさしかかっている昨今。骨董市でご友人のことを思いながら時間をかけて選んだ信楽焼の徳利はジェイさんにとっても特別なものになったのではないでしょうか。心のこもったプレゼント、素敵ですね。
レトロなマッチ箱でまちあるきが謎解きになる
気づくと、小さな直方体がびっしり詰まった箱を一心不乱に掘り起こしていました。
直方体の正体は広告マッチ。1975年ごろを最盛期として製造された広告マッチはまさに昭和の時代を感じさせる昔懐かしいデザインで、「骨董」市という言葉に萎縮しながら巡っていた私はそのかわいさにたちまち引き寄せられました。
よくよく見てみると居酒屋や旅館、企業、イベントの記念品など、さまざまな広告マッチがあります。どれにしようか悩む中で、このお店ってまだあるのかな…という疑問が湧きあがりました。もしかしたらまだ実在するお店もあるのかもしれない。書かれているのは店名と「〇〇交差点東北角」など簡単な位置情報のみ。気軽に行ける範囲で、まだ残っていそうなお店は…。好みのデザインのマッチ箱を探していたはずが、いつの間にかどの謎を解いてやろうかとワクワクしながら漁っていたのでした。
最終的に絞ったのは名古屋市内の喫茶店のものみっつ。さて、これらの喫茶店は現在も営業を続けているのか。マッチ箱片手に探しに行ってきます。結果は別記事にて。乞うご期待!
(文・写真:吉安恵美子)
店名と簡単な位置情報だけの広告ってなんだかロマンチック。情報が曖昧なところが逆に興味をそそります。スマホやナビがない時代は街道や交差点の名前の方がわかりやすかったのでしょう。お店探しに行くときはぜひ紙の地図を片手に歩いてみてほしいです。
物語のかたち
もうずっと前から花入れが欲しいと思っていた。たくさんの花を活けることができる大ぶりなものよりも、野に咲く小さな花が入るもの。そして、花の良さを引き出してくれる落ち着いた色が良い。
これがもともと花入れとしてつくられたものなのかはわからないけれど、ぽってりとした形とところどころにあるひび、なにより口もとが欠けた姿に惹きつけられた。ひびの修繕はどれも表情が違う。時代とともに持ち主をかえながらその都度手が加えられたのだろう。それぞれの持ち主が花入れと過ごした時間、その物語が修繕の跡に重なっている。バトンのように人から人へ渡されて今の形になったこの花入れは、主人公がひとりではない物語のようで騒々しい。私はものの背後にあるそういった地の部分に心が寄っていく。とは言っても見る人によってはただのガラクタ。「割れてたから捨てといたよ」と言う家族の悪気のない笑顔が目に浮かんでしまった。
(文・写真:太田美佳)
帰ってからさっそくお花を活けてみました。すると、漏れ出るというよりもじっくりと滲み出るというように時間をかけて水が底から机の上に広がっていきます。肉眼では見えない割れ目の場所を探して何度も水を入れてみる。それはまるでなにかの実験をしているかのような時間。この割れ目を直すことができたらまた新しい物語が始まりそうです。
骨董市で買い物が終わった後にそれぞれ買ったものを並べて座談会をしました。自分が選んだものの話をするときのエディターたちは、朝8時に集合したときとは別人のよう。とても楽しそうで、充実感あふれた表情です。「店主とこんな会話をした」、「普段の生活で見ることがないものがたくさんあって面白かった」、「こんなものが売り物になるんだと驚いた」。各々、骨董市で過ごした時間の中で興味関心の幅を広げていったようです。
時代を超えて人々に使われ続けてきた古いもの。それらは本来の使い方では今の生活に役立ちそうになかったり、いったいなにに使われていたのかと思えたりもします。なんだかよくわからない不便そうなものを前にしたときに、人は直感的に「もの」と向き合うことができるのかもしれません。気がつくと私たちは、便利で親切なもの、言い換えれば、誰かから与えられたカタチや情報の中で暮らしている。そういった日常の中では、自らの直感を持って「もの」や「こと」に向き合うことが少なくなっているように思います。骨董市で手にすることができるのは、ものそのものではなく、人がものと向き合う時間なのだろう。そんなことを考えながら座談会を終えました。
「大須観音骨董市、次はいつ行きますか」と、声がかかるのを密かに楽しみにしながらまたひとりで出かけてきます。