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大ナゴヤノート.
2020年03月18日

「市内で最も優美なお寺の門」からひも解くもうひとつの美の秘密?
-豊田市・随応院~性源寺-

以前書いた岡崎市の善立寺の記事で、ちょっと珍しい桟瓦についてご紹介しました。桟瓦とは、今もまちなかの日本家屋の屋根によく見られる波打ったような形の瓦。通常は左側が山になった桟瓦が使われ、右側が山になった桟瓦は中国地方など一部の地域でしか使われていないといいます。

善立寺では、降り棟を境に屋根の東側の面だけに右山の桟瓦が葺かれています。愛知県民の私は「善立寺以外で右側が山になった桟瓦を使用している建物を知らない」と善立寺の記事では書きました。が、ついに別の場所で、それも善立寺とは違った使われ方をしている右山の桟瓦を発見しました!今回はその“発見”について書きたいと思います。

いつも特に予習はせずに、行き当たりばったりでまちの瓦を探す私。その日は豊田市内で瓦を探そうと決め、瓦葺きの建物のあるお寺や神社などをめぐっていました。何ヵ所目かに訪れたのは豊田市寺部町の随応院というお寺。門をくぐって少し進むと、本堂の手前にもうひとつ門が。私の視線は自ずと軒先に向かいます(笑)
軒先の隅には普通、シュッとした筒がやや反り上がったような形状の瓦(隅巴瓦といいます)がついているのですが…こちらの場合はなんだか様子がおかしい。近づくにつれて、その正体がわかりました!

隅巴瓦を下から覗いた様子がこちら。

わぉ!鬼さん!? 隅巴瓦は、下側に菊模様などの透かし彫りが入っているものもありますが、こんなふうにお顔がついているものは珍しいです。

さらに反対側も…

お顔立ちがちょっと違いますね。どちらも愛嬌のあるお顔ですが、角があるので“鬼”のはず。非常に凝ったつくりで、門に威厳も添えているように思います。

しばしこの左右の鬼さんを見比べて楽しんだ後、門から1歩、2歩と下がって全体を眺めてみます。

あら、左右対称だわ!さらによくよく見れば、向かって右側にはそう、冒頭でご紹介した右山の桟瓦が使われているじゃあないですか。
善立寺以外で初めて遭遇した右山の桟瓦に感激を覚えつつ、では左右対称の真ん中はどう処理しているのだろうかと目をやると、これまた私が初めて目にする瓦がそこに。私の知る限り、これは「両袖瓦」と呼ばれる瓦ではないかと思います。両袖瓦とは、桟瓦でいう山の部分が両側についている瓦です。この両袖瓦と平瓦(山部分のない瓦)とを交互に葺く方法が17世紀後半の岩国城下で考案されたようで、山口県岩国市の武家屋敷などに見られるのだとか(参考:奈良新聞webページ)。

奈良新聞の記事は、両袖瓦が2011年に岩国市以外で初めて出土したことを紹介するもの。奈良のケースでは商人を通じて伝わったのではと推測されていますが、愛知にも何らかの縁で両袖瓦がやってきた、ということなのでしょうか。しかし、岩国では両袖瓦と平瓦が交互に並んでいるのに対して、こちらでは両袖瓦を中心に、左側には左が山の、右側には右が山の桟瓦を連ねることで屋根面全体が左右対称になるように葺かれており、使われ方が異なります。桟瓦の葺き方について調べてみましたが、このような葺き方を紹介する資料などは見つけられませんでした。

そんなこの門の傍らに立てられていたお寺の解説板には次のように書かれています。

本堂正面の中門は、六脚柱の唐破風造りで、文政2年(1819)に渋川村(現・豊田市広川町)の棟梁江尻儀兵衛の手により再建されたもので、市内の寺院にある門としては、最も優美な門と評されている。

市内の寺院で最も優美な門! …とはいえ、いったいどこが「優美」と評されたのだろう。この解説板からだけではわかりません。
後日、私は図書館で「新修豊田市史 22 別編 建築」(2016年)をひも解き、随応院の中門に関する記述を探してみることに。そこには門の建築構造が解説されたのち、「この門は、近世後期の四脚門として、新たな技法を組み込んだ清新な門である。」との一文。もう1冊、「豊田市の寺社建築3 浄土宗寺院」(1998年)も見てみましたが、こちらには優美さに関係しそうな記述はありませんでした。そしてどちらの資料も、左右対称の桟瓦葺きや隅巴瓦には一切触れられていません。私の資料の探し方が甘いのか?と、愛知県図書館のレファレンスサービスのお力もお借りしてみたのですが、優美さの理由について書かれた資料はないようです。

「優美」の理由はやはり、屋根よりも門のつくりにあるのでしょうか。そうなのかもしれません。でももしそうだとしても、私はこの屋根、この瓦にも美しさを感じます。ところがwebを検索してみても、随応院の中門の桟瓦葺きについて書かれたものはおろか、隅巴瓦の写真も出てきません( 2020年3月現在、私がinstagramでupした写真のみが出てきます)。誰にも注目されていないのだとしたら、なんと寂しい…。「市内で最も優美な門」に秘められた瓦の美にもぜひ目を向けてもらいたいものです。

豊田市で瓦めぐりをした日の話に戻りましょう。随応院を後にし、引き続きお寺や神社の瓦を見て回っていると、こんな屋根に出逢いました。

随応院の中門と同じ、軒唐破風に両袖瓦を軸とした左右対称の桟瓦葺き!

こちらは豊田市広川町にある性源寺の本堂。門と本堂という違いはあるものの、特徴的な葺き方の屋根がわずか1kmちょっとの距離にあり、どちらも浄土宗のお寺らしい。何か関連があって同じ屋根なのかしら…ひょっとして随応院と同じ江尻棟梁の手により建てられたのか?! などと想像が膨らみます。

上述の随応院の中門について調べるついでにこちらも調べてみたところ、性源寺の本堂が建立されたのは元文6年(1741)、大工棟梁の名は鈴木猶右衛門重矩。随応院の中門が建てられたのよりも80年ほど前のようですね。棟梁も当然ながら別人。
「豊田市の寺社建築3 浄土宗寺院」には、向拝(社寺の屋根中央の前方に張り出した部分)は後から改造してつけられたもので当初は軒唐破風ではなかったと思われる、との記述がありました。改築時期までは書かれておらず、随応院の中門との関係もわからずじまいではありましたが、もしかしたら改築後の屋根に瓦を葺く職人さんが随応院の中門の屋根を参考にしたのかも。またまた妄想が尽きません。

いかがでしょうか、私の考察。お寺やその建物の歴史って、いざ調べればちゃんとどこかにまとまっているもの、と勝手に予想していましたが、意外とそうでもないのだと実感しました。でも、自分なりに観察し、仮説を立てながら眺めるのも悪くない。いや、むしろますます面白く感じられます。私の瓦探究はまだまだ続きますよ。

写真:脇田佑希子、岡村(筆者の瓦めぐり同行者)

脇田 佑希子

愛知県海部郡生まれ。なんちゃって理系のサイエンティスト+編集屋+瓦を追うひと。暇さえあれば軒丸瓦を探しにまちへ繰り出すおさんぽ好き。まちに埋もれたお宝を、人それぞれに発掘できるような“仕掛け”を創りたいと日々思案を重ねている。
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