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大ナゴヤノート.
2023年09月27日

まちの見方を真似すると2023
-エディターも読者も瓦を探してみた-

3年ほど前に、エディターたちに瓦を探してもらうという企画を実施しました。当時から考えていたのは、これを読者の方にも体験してもらいたいということ。その構想をようやく実現できました。

準備ステップとして今春開催したのが、瓦の魅力や見方を知ってもらう瓦さんぽ。その参加者の皆さんに、「今度はご自身で瓦を探して文章を書いてください」という“宿題”を課しました。どんな瓦を見つけてきてくださるか、またどんな文章を書いてくださるか、期待と不安をない交ぜにしながら寄稿をお待ちしていたのですが、集まったのはなんともバラエティに富んだ瓦探しの成果報告。それではさっそく、4人の書き手が見つめた瓦とそのストーリーをじっくりとお楽しみください!(書き手には大ナゴヤノート.のエディターも含まれています。)

旧市川家住宅(愛知県刈谷市)


刈谷市が城下町だったことを感じさせる数少ない町屋、旧市川家住宅(旧市川呉服店)の主屋で見つけました。1871年(明治4年)創業の市川呉服店は、場所を変えて今も営業する呉服店。2021年(令和3年)には創業150周年を迎えています。
軒丸瓦や隅鬼は市川家の家紋である井桁紋入り。現在の市川呉服店のロゴは、この井桁紋から発展したのかどうか、なんともいえないデザインです(編注:現在の市川呉服店外観)。では昔のロゴは井桁紋そのものだったのだろうかと調べると、他の呉服店とは違ってロゴはなかったようであり(編注:『商工名鑑』(名古屋商工社、1914)において、他店の多くには屋号紋が載っているが、市川呉服店の欄にはない)、これもまた奇妙に見えます。
旧市川家住宅の敷地内には、「市」字の軒丸瓦もあるほか、ただひとつ、八つ鷹の羽車紋が刻まれた軒丸瓦も(写真左端)。瓦だけ見ても謎だらけな建物ですが、それが古いまちの証なのかもしれません。
(文・写真:かんた)

ここは…!今度、刈谷を訪ねるときにはぜひ見に行きたいと思っていた瓦スポットのひとつです!ただ、地図をいくつか見ても、この建物の名称が示されたものが見当たらず、私にとっても“謎の建物”でした。かんたさんのおかげでその謎が解け、それだけでもこの企画をやった甲斐があったと個人的にはうれしく思っています。
一方で、Googleストリートビューでこの場所を見返していて、ショッキングな発見もしてしまいました。2019年8月に撮影された外観を見ると、現在の市川呉服店のロゴと同じ紋が入った軒丸瓦が確認できるのです(ストリートビューへのリンク)。が、2021年のストリートビューでは新しい瓦に葺き替えられているように見え、かんたさんからの報告でもロゴと同じ紋の瓦があるとは書かれていないので、おそらく今はもう現地には存在しない瓦なのでしょう。あぁこうして貴重な瓦が消えた事実を知るのは本当に哀しいことです…。

清洲城(愛知県清須市)

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(文原作・写真:河原三歩、作画:大ナゴヤノート.編集チーム)

清州西小学校には瓦を題材に授業をなさる粋な先生がいるのですね!(注:「清州西小学校」は実在しません。)事前授業で予想をし、現物を見て、考察する。瓦を使ったそんな調べ学習があちこちの学校で展開されたら面白いだろうな~なんて妄想してしまいました。

お城というと、城主が入れ替わることも珍しくないですよね。そのような経緯をもつお城では、修繕を施した時代に応じて瓦に入る紋もかわるため、さまざまな紋が入った瓦が現存している場合があります。清洲城にも、織田木瓜だけでなく、豊臣政権下で使用を許された桐紋入りの鬼瓦があったよう(参考)。
しかし今ある清洲城は、三歩さんも鋭く気づいているとおり、模擬天守*。現在の天守の瓦に代々の城主の“しるし”が残っていることはあり得ません。それでも現天守に織田木瓜紋が入った瓦があるというのは、清須のまちの人々に織田信長が愛され続けているということだろうと感じました。

* 実在した天守とは異なる(史料等に基づかない、復元でない)天守。

長寿寺(愛知県名古屋市緑区)


山門右手の会館の前に、1メートルを超えるであろう大きな物体がありました。本堂の屋根の両端にも同じ形のものが載っています。これも瓦といって良いのかしら。調べてみると、「鴟尾(しび)」と呼ばれる飾り瓦。「もしや前に使われていた瓦では」と思い住職に聞いたところ、予想どおり明治頃から使われていた古い瓦でした。
もともとこの地には別の寺があったようですが、桶狭間の戦いで焼失したとのこと。同地で再興した長寿寺も、太平洋戦争の空襲で本堂以外の建物の多くが焼ける被害に遭いました。その後、昭和後期に伽藍を再建した際に本堂の鴟尾も新しいものに取り換えたのだそうです。
鴟尾には火除けのまじないの意味があるともいわれ、それを意識して据えたのかと考えると、なんだか切実な思いを感じます。新旧の鴟尾を見比べ、この地が再び戦火に見舞われることがないようにと願うのでした。
(文・写真:榊原あかね)

あかねさんは瓦さんぽで、屋根の上だけでなく下(地表付近)にも目を向けると古い瓦などを見つけられると知り、さっそくその学びを実践してくれたようです。これまでの瓦さんぽ参加者さんからも「“瓦=屋根の上にあるもの”だとばかり思っていた、寺社の境内などに置かれている瓦があるとは知らなかった」という声はよくいただいてきました。
こうして地上に置かれている瓦を間近で見ると、瓦の作者名や製作年などを瓦に彫られた字から確認できることもあります。写真の鴟尾も、上面になにやら書かれているのがかすかに見てとれますね。ここの字を読めば、いつどこでつくられた鴟尾なのか、より詳しくわかるはずです。

ちなみに、私も長寿寺を訪ねたことがあるのですが、長寿寺の境内で私が気になっているのは「茶」の字入りの鬼瓦。よく見かける「水」ではなく「茶」なのはなぜなのか、あかねさんがそこも突き止めてくれていたら200点満点でした!(笑)

甚目寺観音(愛知県あま市)


私の地元、愛知県あま市にある甚目寺観音。597年(推古5年)から続く由緒ある寺院であり、尾張四観音のひとつとしても有名です(以前、観音さまをめぐる記事でも紹介しました)。
先日、甚目寺観音の境内を回るフィールドワークに参加し、なかなかお目にかかれない瓦に出会いました。それは、境内を中心とする甚目寺遺跡から出土した古い軒丸瓦。蓮華の文様で、釉薬などはかけられていない素焼きの瓦です。写真で見たことはあったものの、実物にはやはり感動を覚えます。
じっくり観察すると、蓮華を描く直線も曲線も整然としていて、造形がすごく美しい。一つひとつ手で彫ったのか、それとも型のようなもので量産したのか。いずれにしても、はるか昔の軒丸瓦づくりの技術にふれて、瓦の世界の奥深さを改めてのぞき見た気がしました。もっと製造方法やその歴史から瓦を深掘りしてみたいです。
(文・写真:小林優太)

ついに、屋根の上でも地上でもなく、地下から掘り出された瓦が大ナゴヤノート.に登場しましたね。
地中から出てくる古代瓦によくみられる文様の一種が、この写真と同じような蓮華のモチーフ。ざっくりいえば、古いものほどシンプルで、時代を経るにつれて複雑な文様になっていきます。
写真のものは、シンプルなほうの素弁蓮華文(そべんれんげもん)と呼ばれる文様…ですが、一般に素弁蓮華文はほぼ直線のみで描かれます(参考)。ところが、小林さんがなにげなく書いているように、この瓦の蓮華は花弁の先端が曲線になっている!そこに気づけている小林さんは、既に瓦の奥深い世界に足を踏み入れているのではないでしょうか。

せっかくなので補足しておくと、軒丸瓦は基本的に手彫りではなく木型で成形するようです。考古学では、各地で出土した瓦が同じ型でつくられたものかどうかを見て、技術の伝わり方や地域のつながりなどを考察するのだとか。


4人からの寄稿は、瓦の種類も見るポイントもバラバラに見える一方で、いずれも「歴史」が主題にあるように思いました。近代に建てられた建物も飛鳥時代の寺院も、そこに瓦があって、瓦とともに生きた人たちがいて――。私も瓦から歴史に思いを馳せることはよくありますが、先般の瓦さんぽでそうした見方まで語れていたかというと、そうでもないような…?にもかかわらず、4人の視点にはどこか私の瓦の見方にも通ずるものがあるように感じられるのが、なんだか不思議でもあり、感慨深くもあるところです。

さて今回の、エディター以外の方にも“まちを見つめて書きとめて”いただこうという初の試み。積極的にチャレンジしてくださったかんたさんと河原三歩さんには、PCの前から拍手をお送りします!「書く」という作業は、時にしんどく難しいものだと私自身も日々痛感していますが、“まちを見つめて書きとめ”ることにはその苦難を上回る喜びや面白さがあると、おふたりにも実感していただけていたらうれしいです。
大ナゴヤノート.が企画・開催する「オープンノート.」は、まさに“開かれたノート.”として、誰もが書くことに一歩踏み出せる場にできると良いなと改めて感じました。まだ「まちを見つめて 書きとめて」を体験していない大多数の方向けに、今後も機会をつくっていければと思っています。

脇田 佑希子

愛知県海部郡生まれ。なんちゃって理系のサイエンティスト+編集屋+瓦を追うひと。暇さえあれば軒丸瓦を探しにまちへ繰り出すおさんぽ好き。まちに埋もれたお宝を、人それぞれに発掘できるような“仕掛け”を創りたいと日々思案を重ねている。
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